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ポーランドポスター
ポーランドポスターの歴史


1980年末   ポーランドポスターの誕生

ポーランド・ポスターの歴史は19世紀末に遡る。ポーランドがロシア・ドイツ・オーストリアの三国に分割されていたその頃、ポスターが絵画や他のグラフィックアートと比肩するような独自の芸術になろうとする傾向が、ヨーロッパ全域に現れた。
その中でもオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあり、他の都市に比べ、自由な気風があり、ポーランド独自の文化が育まれ易かった古都クラクフでポーランド・ポスター文化が誕生することになる。
   
2000年初頭   “若きポーランド”の時代

19世紀から20世紀へ移る頃に普及した色刷りのリトグラフの発展、またフランスのアール・ヌーヴォーやドイツのユーゲント・シュテイールなどによる近代デザインの概念を吸収し、ボイチェフ・バイス、カロル・フリチなどの画家たちが、ポスターを重要な絵画芸術の1つにまで変化させた。画家にポスター制作を依頼していたこともあり、題材を自由に解釈した絵画的でダイナミックな表現方法は、後にポーランドポスターの欠かせない特長の1つとなる。
そして同時にこの頃、分割された母国の中で民族のアイデンティティーや価値観の共有を求めて“若きポーランド”というモダニズム運動が起こっていた。こうした発展と平行して、1901年に創立したポーランド工芸美術協会は“国民芸術”というイデオロギーを抱え、ポスター芸術の向上と版画の審美的質の向上をコンセプトにヤン・ブコフスキ、ユゼフ・チャウコフスキ達により、色彩豊かで豪華なポスターを生み出した。
そこでは、西欧の形式の他、日本の版画や浮世絵の表現様式などにも影響を受けながらも、ポーランドの伝統的なフォークロアモチーフを重んじて、ポーランド独自の芸術として発展させることになるのである。
   
1920〜30年代   ポスター地位の向上とワルシャワの台頭

第1次世界大戦後、独立を獲得したポーランドは高揚した雰囲気に溢れていた。社会的な運動の他、祭典、選挙、文化的な催し物などの告知で、ポスターの需要は急増していく。その中で専門的な教育機関や高精度で、より高い芸術機関を求める声が起こり、エドムンド・バルトゥウォミェイチクワやズィグムント・カミンスキなどの一流講師を迎え、ワルシャワ工科大学・建築科でグラフィックの授業を行うことになった。そこでは、1920年代、ドイツで誕生したバウハウスの理論も紹介され、今までの装飾的な形式から、機能美かつモダンなデザインを表現するポスターも数多く生まれてくる。
そして1925年、パリで開催された『現代装飾・産業美術国際博覧会』において早くもポーランドのグラフィックが早くも注目されることになった。広告芸術部門で、当時ポーランド国内で絶大的な支持を得ていたタウデシュ・グロノフスキとゾフィア・ストリイェンスカがグランプリを獲得し、他7名もが賞を獲得した。さらにはオフセット印刷の最新技術を用いていた為、印刷技術に対しても多大な賞賛がもたらされた。
   
1930年代〜   ポーランド・ポスターの成熟期

ポスター芸術が美術として成熟を遂げ始めたこの時期、グラフィックアーティスト連盟の機関誌『グラフィカ』がタウデシュ・グロノフスキの編集により創刊され、またアーティストたちは広告代理店を通して、中央官庁や国の専売公社からフォード、コルゲート、ゼネラルモーターズなどの外国企業のポスターも手掛けるまでに至った。そしてその活躍は1937年に開催された万国博覧会『現代生活における芸術と美術』においての約33名のポーランドアーティストが受賞した、という事実にも裏付けられる。
   
第二次世界大戦後   共産主義体制へ

ドイツに弾圧され、多大な被害を受けたポーランドだが、ポスター業界も大きな損失を被むり、共産主義という新しい社会体制の中で新たな世界観を表明する役割を担うことになった。1945年には国の新しい体制を推奨する為の検閲機関、美術宣伝局が設立され、1949年以後は芸術・グラフィック出版局により情報はコントロールされ、社会主義リアリズムに順応せざるを得なくなった。形式もかつての寓話的なデザイン、伝統的なシンボルなどかつての表現への回帰を強いられたが、ピカソやマティスなどを中心とする海外絵画界の革新的な様式の確立、またソ連では禁止されていた抽象画やデフォルメといった表現が許されていたことにより、アーティストは検閲をくぐり抜けながら独自の作風の固守したのである。
   
1950年代半ば〜
60年代
  ポーランド・ポスター黄金期の到来

アーティストに作品を発注するは常に国家で検閲も廃止されることはなかったが、1956年のスターリン批判や10月事件の後に、国家は芸術に対する厳しい姿勢を緩和し、印刷資金を提供するのみで作品に関しては一切干渉しないという状況が出来上がっていった。50年代末にはより文化が推奨されはじめ、映画や演劇、コンサート、サーカスなどのポスターの需要が高まり、特に国営機関である映画配給局(CWF)は新しい表現でのポスターを依頼していくことになる。
その大きな流れの牽引者となったのが、ヘンリク・トマシェフスキである。1952年にワルシャワ美術大学に開設されたポスターデザイン講座の講師として就任後、斬新で自由な想像の表現の可能性を説き“ポーランド派の父”と呼ばれるようになる。彼の生徒で後に世界的なグラフィックデザイナーとなるヤン・レニツア、ヤン・ムウォドジェニッツ、ユリアン・パウカ、ヴォイチェフ・ザメニチェフなどは類い希な想像力と強烈な個性を持ち、ポスターを単なる伝達手段から解放して、美の伝達する芸術作品として定義し直すことに努めた。
多種多様なスタイルでありながら芸術的見地や趣向においては類似性を見せるこの現象は“ポーランド派”として定義づけられるようになる。また、国家は世界的評価を得たポスター芸術を重要な輸出産業と見なし、ポーランド国外におけるポスター展示会を定期的に企画し世界各地の評価を高め、水準を維持するよう、この芸術を援助、保護した。
   
1960年代以降   ポスタービエンナーレ

ポスターが世界各国で喝采を浴びる中、ポーランド建国1000年にあたって計画されたのが世界初のポスターコンクールである、ポスタービエンナーレであった。そこでは西ヨーロッパから果てはインドまで約468作品が展示され、ポーランドポスター史を形成してきた回顧展やデザインに関するシンポジウムも行われた。
そして1968年には再び世界初のヴィラヌフ・ポスター美術館が開館され、作品を展示・保存する専門の美術館が開館したことにより、ポスターの地位が格段に向上したほか、短命な美術作品に安全な保管場所が与えられ、その歴史的意義が評価されることになった。
   
1970年代以降〜
現代まで
  60年代末から70年代にかけての時期は、ヨーロッパの経済、水準に追いつこうとする“第2のポーランド”のビジョンが支持され、それは今まで重要視されていなかった広告の役割を意味づけることになった。
初期のポーランド派アーティストもまだまだ現役であったが、世界中で広まりつつあるポップカルチャーにも影響され、アンジェイ・クライェフスキやヴァルデマル・シフィエジなど新世代のアーティストも活躍するほか、ヤン・サフカやイェジ・チャルニャフスキといった、学生による反体制運動の広がりの中で培われた反逆精神や知的挑戦を意図した作品を輩出するアーティストも現れるようになる。
そして、1989年共産党が破れ、民主主義と自由市場経済を目指したことにより、文化組織への資金供給は格段に減り、劇場、ギャラリーはポスターを印刷する費用が捻出できなくなったほか、端的なキャッチフレーズを重視した他のヨーロッパの広告手段を急速に取り入れたので、芸術的なポスターは危機に陥った。
その時救いの手を差し伸べたのは、ポスター愛好家とコレクターだった。
彼らはアーティストの為にポスターや図録の出版を行うほか印刷費用の為のスポンサー探しなどを担った。
そして現在、徐々にであるが劇場やギャラリーがポスターを作成するという習慣を取り戻しつつある。
そこではやはりポーランド派から引き継がれている、絵画的な表現を持つ作家たちのものが圧倒的に多い。その中で寓話的な世界を表現するスタシス・エイドリゲヴィチウスや、モノクロームの世界観を表現するヴィエスワフ・ロソハなどの中年世代から、一時代を築いたヘンリク・トマシェフスキやヤン・ムウォドジェニッツへの発注も再びおこなわれるようになった。
ポーランド派の時代から現在の作家に至るまで、その特長は一言で言い尽くされるものではない。
しかし、そこには非凡な想像力と独自の解釈、ダイナミックでたちまち魅了されてしまう表現力がそれぞれにあり、告知物という制約の中で表現の自由をとことん追求した作家たちの心意気が手にとるようにわかるがゆえにその世界に引きずり込まれるのではないだろうか。
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